かんがんと読む。去勢された役人で、後宮の事務を取り締まる役に多くは就いた。
殷周の時代から清朝までこの風習は続いた。しかし、皇帝のお側にいるということから、実際には宰相よりも権力を持った。
しかも、その多くが権力闘争に明け暮れ、資材を争って貯めたから、国力を大いに疲弊させた。
三国に時代まででも秦・後漢・蜀の三国などは、宦官に滅亡の間接的原因がある。しかし、史記の司馬遷、紙を発明したといわれる蔡倫(以上漢代)・大航海をした鄭和(明初)も宦官である。
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意外に知られていないが、「破竹の勢い」も三国時代にできた成語である。もっとも、三国志のは記述がなく、晋書に記述がある。しかも、この言葉ができたのは279年である(晋が呉を平定し、三国時代が終わるのが280年)。
杜預という将軍がいた。字を元凱といい、呉を亡ぼす為に鎮南大将軍に任命じられていた。(このころは魏蜀は滅び、その領土を晋が治めていた) 学者としても有名で、春秋左氏伝をこよなく愛し、晋の武帝(司馬炎。司馬懿の孫)に「臣は左伝癖がございます」といったという。また”春秋左伝集解”という春秋左氏伝の注を著し、後世に春秋左氏伝を伝えた。その杜預が武昌に駐屯していたとき、呉討伐のことで、諸将を集めて会議をひらいた。あるものが「春半ばであるから、江水によって、この地に駐屯するのには限界があります。ひとまず戻り、冬に攻め直しましょう」といった。 それに対して杜預は 「我が軍勢は勢いにのっている。竹を裂くときのようだ。竹は2節・3節と節を裂けば、自然にどんどん裂けていき、力を加える必要がないのと同じだ。この機を逃すべきではない。」 こうして、攻撃を加えた結果、呉の皇帝、孫皓を降伏させた。
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