白馬・官渡の戦い


曹操は呂布・袁術・劉備を滅ぼし、奔馬の勢いだった。一方、袁紹も幽州・并州(へいしゅう)・青州・冀州(きしゅう)(4州とも華北地方)を治め、中原の第一の勢力であった。かつては盟友だった二人も敵対する仲となる。
袁紹は200年2月、白馬に出陣。曹操も邀撃する。曹操は、袁紹軍の勇将、顔良を客将関羽に、もう一人の勇将、文醜を寡兵で討ち取る、という結果を収めた。

ニ将を殺された、袁紹は、持久戦とるべき、との参謀の意見を蹴って、曹操と”決戦”をすることにする。
双方は石を飛ばす武器”発石車”や、地下道を掘る作戦、ゲリラ作戦を行ったが、一進一退と言うところだった。戦が長引くため、兵糧の問題が出てくる。
曹操は兵糧難に耐えきれず、本拠地 許にいる参謀に意見をきいたところ、「我慢すべき」とのことだった。曹操はそれに従い、対峙する。そして待った甲斐が有り、袁紹の参謀の投降もあって、袁紹軍の兵糧を焼き討ちし、袁紹を破った。袁紹はやがて失意のうちに病死し、遺児たちは、同士争いをし、結局曹操の前に敗れ、袁一族は滅びた。

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