一方、孫権は魏の曹丕(そうひ)に臣従を近い、援軍を出してもらうよう、要請した。臣従は認められたものの、援軍は出してもらえなかった。そこで孫権は関羽討伐に功のあった、陸遜(りくそん)を総司令官に起用した。双方は進軍し、夷陵にて対峙する。
陸遜は意気盛んな劉備軍をすぐに破るのは難しいと判断し、諸将の反対を受けながらも、持久戦に持ち込んだ。劉備軍は夏になって、士気も衰えてきた。そこで劉備は柵をつくり、相手の攻撃を防ごうとした。だが、それが裏目に出る。陸遜は疲弊した劉備軍に火を放つ。柵に火がつき、劉備軍全体、火に包まれた。劉備軍の焼死者は数えきれず。劉備は命からがら逃げ、後事を諸葛亮らに託して死んだ。