夷陵の戦い


兄弟同然であった、関羽を殺された、劉備は恨みをすすごうと呉を攻める計画を練った。 そこに、また悪い知らせが届いた。張飛の暗殺である。張飛も関羽同様、劉備の股肱の臣。劉備の悲しみは並大抵ではなかった。張飛の首は呉に持っていかれたと言う。劉備は群臣の諌めも聞かず、孫権を攻める決断を下した。

一方、孫権は魏の曹丕(そうひ)に臣従を近い、援軍を出してもらうよう、要請した。臣従は認められたものの、援軍は出してもらえなかった。そこで孫権は関羽討伐に功のあった、陸遜(りくそん)を総司令官に起用した。双方は進軍し、夷陵にて対峙する。

陸遜は意気盛んな劉備軍をすぐに破るのは難しいと判断し、諸将の反対を受けながらも、持久戦に持ち込んだ。劉備軍は夏になって、士気も衰えてきた。そこで劉備は柵をつくり、相手の攻撃を防ごうとした。だが、それが裏目に出る。陸遜は疲弊した劉備軍に火を放つ。柵に火がつき、劉備軍全体、火に包まれた。劉備軍の焼死者は数えきれず。劉備は命からがら逃げ、後事を諸葛亮らに託して死んだ。

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