三國志あらすじ

後漢末期(二世紀末)、政治は宦官(カンガン)と外戚(皇后などの親戚)の権力闘争をしていた。その政治の腐敗をきっかけに張角という者が乱を起こした。いわゆる黄巾の乱である。

朝廷は各州の刺史(長官)、豪族に命令し、黄巾賊を討った。劉備(リュウビ)・関羽・張飛、曹操、孫権の父孫堅もこの時活躍した。乱はおさまったが、宦官が帝に気に入られ、政治を私物化していた。時の大将軍何進(カシン)は諸侯・豪族・刺史の力を借りて宦官を殺そう、と呼びかけた。しかしそれにきづいた宦官側は何進をだまし討ちにした。それに憤慨した何進の家臣、袁紹(エンショウ)らは、宮廷に押し入り、宦官を皆殺しとした。

ここに一人の男がいた。董卓(トウタク)である。董卓は何進の宦官皆殺しの呼び掛けに応じて、洛陽まで来たが、袁紹らが宦官を皆殺しとしたあとだった。董卓は何進の兵士を自分のものとし、勢力を伸ばして、朝廷を切り回した。董卓は皇帝を殺し、住民を虐げ、暴政を行った。それに曹操らは憤慨し、袁紹を盟主として、反董卓連合軍を結成した。

その後、董卓は長安(現在の西安)に逃げるが、配下の呂布(リョフ)に殺され、時代は、群雄割拠の時代に突入した。

その中で曹操は勢力を伸ばし、呂布・劉備・袁紹のいとこ袁術などを攻め、奔馬の勢いだった。そして、かつての盟友の袁紹と官渡にて対峙し、袁紹を破る。その後、袁紹は病死し、袁紹の息子らは、内輪もめを繰り返し、曹操に滅ぼされた。

曹操が袁氏と戦っていた頃、三国志の主人公ともいえる劉備は荊州の牧(長官)、劉表を頼っていて、することもなく、髀肉之嘆をかこっていたが、207年、諸葛亮字は孔明を軍師とする。だが、曹操が南征に乗り出した。その報を聞き、劉表は、病死。劉表の次男、劉j(リュウソウ)は曹操に降伏。劉備は曹操暗殺計画を企てたこともあり、降伏するわけにも行かず、逃避行を開始した。途中、長坂というところで、追いつかれたが、家臣の趙雲(チョウウン)、張飛の活躍でなんとか逃げ切り、孫権のもとにたどり着く。劉備と孫権は、曹操を水戦で破った。世に言う”赤壁の戦い”(湖北省嘉魚県)である。戦いの後、劉備は荊州を領した。

その頃、益州では、暗愚な主劉璋のかわりに名君を立てようという動きがあった。益州の別駕(補佐官)の張松という者が、曹操が隣国の張魯(チョウロ)を攻めたのを機会とし、劉備を益州に呼び寄せ、曹操が攻めてくるかもしれないという事態に備えるのがよい、という旨の進言をした。もちろん劉備に益州を取らせようという意図があって進言したものである。劉璋は、そうとも知らず、その進言を採用した。

劉備と劉璋の関係は始めはよかったが、劉備が、劉璋に一万の兵を貸すようにいった時、劉璋が少しの兵しか貸さなかったため、それを口実に戦闘を開始する。劉璋の将,張任によって、諸葛亮と比せられ、「鳳雛」と呼ばれた軍師、統(ホウトウ)を射殺されつつも、張飛らの活躍により、214年劉璋を降伏させた。

そして劉備は次に、曹操領の蜀の喉元である漢中をとるために、出陣した。曹操も自ら出陣した。結局、219年劉備軍は黄忠・趙雲らの働きにより、曹操の重臣、夏侯淵(カコウエン)を斬って、漢中を手に入れ、曹操が216年、魏王になったのに対抗して、劉備は漢中王に即位した。しかし、同年12月荊州を守っていた関羽が、曹操軍を攻めている間に、同盟を破棄した孫権軍が背後を襲って関羽を襲い、関羽は殺されてしまった。

220年曹操も洛陽にて死去、次男曹丕(ソウヒ)が後を継いだ。曹丕は翌年皇帝の位に上り、洛陽を首都とした。同年4月、劉備も家臣の勧めを受け入れ、蜀王朝を建国。諸葛孔明を丞相(宰相)とした。

さて、221年劉備は関羽の恨みを晴らすため、今は呉の支配下にある荊州に出陣しようとする。しかし、出陣しようとした矢先に、張飛が彼に恨みを持った部下に殺されたという知らせが届く。旗揚げ以来の股肱の臣、関羽と張飛を殺されて、悲しみに暮れる中、劉備は、長江にそって進軍した。それに対抗して、孫権は関羽討伐のときに功績のあった、陸遜(リクソン)を総司令官に任命し、劉備に備えさせた。はじめ調子のよかった劉備軍も、長期戦に持ち込まれ、兵士も疲労の色を見せはじめ、その上に火攻めに遭い、惨敗を喫した。これが夷陵の戦いである。夷陵の戦いの10ヶ月後、劉備は病を得て、諸葛亮に後を任せて永安宮で死んだ。

劉備の後を継いだ劉禅は、わずか17歳で、凡庸であったから、政治・外交・経済・軍事などは孔明(諸葛亮)に一任された。まず孔明は、呉の孫権との関係を修復し、法治主義に基づき、厳しい政治を行ったが、住民からは喜ばれたという。そして225年、南方の異民族、孟獲を平らげ、魏討伐の軍を起こすことにした。

孔明は、劉禅に古今の名文とされる出師の表をささげ、祁山(キザン)に出陣。天水・南安・安定など関西諸郡を攻略し、その後北伐の立役者となる姜維を降伏させた。危機を感じた魏では、張(チョウコウ)・司馬懿(シバイ 字は仲達)を蜀軍に当たらせた。張は蜀軍のかなめ、街亭を攻略し、孔明の愛弟子、馬謖(バショク)を打ち負かした。重要な前線基地を失った孔明は、漢中へ退却した。そして、愛弟子、馬謖を軍紀に背いたため斬った。これが世に言う「泣いて馬謖を斬る」である。つづいて孔明は第二次・第三次・第四次北伐を敢行するが、余り成果は上がらなかった。

231年、孔明は第五次北伐を行う。第一次と同じルートで行われたが、司馬懿との正面対決となる。しかし、兵糧がきれ、撤退せざるをえなくなる。撤退の途中、追撃してきた、魏将張を殺し、司馬懿に大きな痛手を与えた。

孔明は3年間の間兵士の訓練や内政につとめ、234年第六次北伐を開始する。魏は司馬懿を五丈原にて孔明と対峙させた。向かい合うこと100日あまり、孔明は五丈原の陣中で息を引き取る。孔明に後を任された、楊儀、姜維らは、孔明の棺を守って, 国都成都に退却した。

孔明亡き20年後、無能な主、劉禅をいだく蜀は魏に攻められて滅び、 2年後、魏も司馬懿の孫、司馬炎の建国した、西晋によって滅ぼされた。最後に残った呉も280年に西晋に滅ぼされ、三国時代は終わるのである。

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